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送れないラブレターのような、女友達への失恋の話

友情には賞味期限がある。それは仲が良ければ良いほど、適用される。なぜその人との縁が切れたのか、原因は様々だ。私の精神状態が悪く、その子に頼りすぎた結果愛想を尽かされるのが常だったが、最近の安定した病状ではそういうことはあまり起こらない。だからといって人間関係のトラブルが無くなるわけではなかった。


周波数の変化は誰にでもある。ただでさえ人生の局面が移ろいゆく20代後半だ。ファインシャルプランナーに今後の資産形成を相談することなんて考えもせず、酒と男と本があれば生きていけると豪語していた学生時代の友よ。


方向転換、軌道修正、かと思いきやそのままの道を突き進んだり、このままでいいのかと思い悩み二転三転してみたり、私とお別れした彼女等には、私の知らないところで決断した人生があることは間違いない。


その背景に思いを巡らすことはできるようになったが、喪失の痛みは三年前の「失恋」であっても鈍く光り、今周りにいてくれる人たちもいつかきっといなくなってしまうんだろうと悲観的になる。いや、悲観的というよりは、友達は持ち替えていくもの、この考えは現実的とも言えるかもしれない。


酒井順子のエッセイに、20代30代は激動の人生を送るお互いの変化についていけなくなって疎遠になるが、親の介護や自身の健康が話題のトピックとしてあげられるようになる中年でまた再開する、という趣旨の記述があった。


そうだといいんだけど。今までのように付き合えなくなった理由を静かに理解していても、完全に「過去の人フォルダ」に入れるのはまだためらいが残る。


どっちにしても、私にできることは、思い出を慈しみながらも自分を生きるしかないのだ。












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