殻を剥ぐようにぴかぴかの自分がでてくるような感触だ。双極性障害はまだ寛解していないが、心持ちがだいぶ変わり、「平凡な自分」を肯定できるようになってきた。自分の凡庸さを憎み、普通ではないことをしたがり、何者かになりたかった。しかし、その必要がなくなったのだ。今、私は一つの旅が終わった気がしている。
私がライターになろうとしていたのは、三つの理由があると思っている。一つは、父親の影響だ。もう一つは先ほどに挙げた、自尊心の欠損からくる「何者かにならなくては」信仰。最後は、社会への怒り。
父は書く仕事をしている。そして父と私には確執がある。私は病気になって父に見捨てられたと思っていた。本人に確認できないので、真相は定かではないが、とにかくそれを挽回して認められたかったのではないかと推察している。
私は自分のことしか書けない。それは自己カウンセリングや癒しの機能があったのだと思う。しかし、健康になってきた今、内に秘めたマグマのような何かやってやるというハングリー精神や歪みが無くなってきた。推進力としての不健康さが消え、ライターで食っていくというモチベーションも消失している。それに伴い、書きたいこともなくなっている。死に物狂いで成り上がってやると思っていたし、常にネタもあったのに、不思議なものだ。
表現者としての自分よりも生活者としての自分を選んだ。もちろん、私のことだから一時的な心の平和だということも考えられる。でも、去年の11月からライターやめるー!と言ったり、やっぱりなるー!と覆したりしていたが、結構スッキリと結論が出たように思うので、ここが着地点だということにしたい。
書くことは好きだ。でも職業にするには、未熟だった。心理的な成長が進路変更へ導いたとも言えるが、「社会への怒り」を持ち続けて昇華することができなかったとも言えるからだ。
しかし、生活者としての自分を選んだと言っても、根っからのコンテンツ消費者になる気はない。ぼけっとしていると生活だけに集中してしまう世の中なので、それに抗うためにも「書くこと」は手放したくないと思っている。
認められたいと思って書いてきた。過去の私にとって「書くこと」は血に濡れた楔を人生や社会に打ち込むことだった。今は、ふわっとした空気を捕まえるような心持ちでいる。
まあ、下手くそなりに、(とか昔は絶対に言えなかったのよね)未来の自分を作っていくつもりで、読んだり書いたり、続けていきたいです。
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