「自分は書くことしか能がない」「なるべくして作家になった」「書かないと生きていけない」このような言葉が大嫌いだ。「書く」ことへの特別意識から生まれる、大衆にストーリー、救済や気づきを与えたい神のような視点に臆面のなさを感じてしまう。そのような発言で自分の作家性にブランド力を付与させたいんだろうな、と卑屈ながら思う。自分は生まれながらに「書く」側の人間なのだと自分自身にカリスマ性をふりかけたいんだろうな、と。
「自分にとって書くことは息をすることと同じ」というライターの友人がいる。
自分を生きながらせるようなケアの力と、目の前の現状を見据えて次の選択肢を決めるような推進力を伴うのが「書く」効用だと私も思っている。その友人が大変な環境で生きてきて、「書く」ことに助けられたことも知っている。しかし、私はその「息をすることと同じ」という彼女のその言葉が、あまり好きではない。
私は今年の6月から就職する。ライターは稼げないからならないし、なれない。そう決めたのに、その友人がどんどん出世していく様子や話を聞いていると辛くなる。「書く」ことは手放さず、生業にできなかったとしても、ライフワークとして継続していこうと思っているのに、嫉妬と悔しさで泣き続けた。
なぜ私がライターになれないのか、自分ではよくわかっているつもりだ。私には、「書く」ことはできても「書き続ける」ということができないのだ。
一本の記事を仕上げるのに、文字通り心血を注いでいる。消耗が激しい。左手で書く、みたいなことがあまり得意ではない。私の当事者性を帯びたテーマがフェミニズムや障害だということも大きいだろう。自分を削るように書いてしまうから、生活と両立させる職業にすることができない。
偉大なるスーザン・ソンタグに自分をなぞらえるのは傲慢極まりないからそのつもりはないとはっきり言っておくが、彼女の言葉を引用したい。
「書くことは自分を使い果たし、自分の命を危険にさらすこと」
私は「書く」ことへの覚悟が足りないのだ。それよりももっと「生活」を愛している。
命を危険に晒して仕事に邁進することもまた一興だが、私は心身共に静寂の中で人と自分を慈しむことを選びたい。自分が小さい黒い文字になって引き延ばされ消費されていく過程で食えるライターになっても仕方ない。ソンタグはその言葉通りに生きた。消費なんて怖くない万歳、と彼女なら言うだろう。私はそんなことできない。
そこまでわかっているのに、「書くことから私は逃れられない」だなんて絶対に発したくないのに、どうして「書く」ことを手放せないのか。ライターへの未練たらたらなのか。
「書く」という行為は私にとって社会変革の第一歩であると同時に、内面整理の癒しと自己顕示欲の入り混じったいやらしいもので、あまり他人にお見せできるものではないと自覚しているのに、ほら私の文章って言い回しがしゃれていて文才があるでしょう、などと内心では思っている。
驕りついでに言わせてもらうと、私は自分に書く才能があると考えているし、書いているのは必然であるような人生を送ってきたと自負している。だから、冒頭で書いたような「書かないと生きていけない」みたいな人間なのだ。
そして、中途半端であるがゆえに貪欲で、お金も豊かな生活も書くことも仕事の充実感も全部欲している。何も捨てなくない、全部欲しい。ハードルは絶対に下げたくないんだ。
スーザン・ソンタグからしたら生温いだろうが、自分は全部使い果たすことなく、甘やかしつつ、私の人生丸ごと全部味わいたいと思います。私の人生はコンテンツじゃない。でも書くことはやめられない。いろんな理由で専業にはなれないけれど、細々と書き続けていく。
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