フェミニズムに疲れたという話です。
フェミニズムとは何なのか、私はその全貌も詳細も理解できている気がしない。そして私は学術的なことに詳しくもない。だからこれは、私の中のフェミニズムを辿った超個人的なメモみたいなものだ。そしてそれは、『かがみよかがみ』から始まる。
滝薫は、『かがみよかがみ』に投稿する際に短歌垢から作り直したアカウントだ。『かがみよかがみ』と私の確執についてはnoteに詳しいのでここでは省くが、当時の私は夢中になって投稿し、読者や友人になった投稿者との交流に心躍らせ、自分の膿を一つ一つ綺麗に絞り上げて最後に煌びやかなサテンをかけるようなイメージで過去の『コンプレックス』にまつわるエピソードを文章として世に出していた。『かがみよかがみ』の問題点についてなんて、きっとあの上野千鶴子氏の炎上対談企画がなければ気づかなかったと思う。そのくらい熱を入れて、本気であのサイトのことを考えていた。
編集長に、炎上のことについて書きたいと申し出たのも、どこかで『かがみよかがみ』が悪く言われていて悲しく、私に名誉返上汚名挽回させて欲しいくらいの気持ちがあったからだと思っている。
『かがみよかがみ』は、自分のコンプレックスを文章にして昇華しよう、そしてありのままの自分を肯定して向上していこう、という趣旨のウェブサイトだ。(と理解している)
そのコンセプトに私はすっぽりと入り込んでしまい、朝日新聞が運営しているブランド力にも目が眩み、ここで書いていればいずれ他の編集者や媒体からも声がかかるのではないか、と思っていた。そしてせっせと膿をキラキラした結論の文章に変化させていた。
愚かだったと思う。でも、当時の私が熱中するのは当然だったとも、また思う。あの頃の私は、実家住みの就労移行支援(障害者が再就職を目指す福祉施設)通いのライター志望というなかなか面白い状況で、障害者雇用で働きたくなさすぎてフリーランスのライターになりたかったが、その方法がわからなかった。だから『かがみよかがみ』にすがった。
私が『かがみよかがみ』で書いたことは、一言でまとめると「女である苦しみ」に尽きる。その頃の私は男女対等なセックスについて真剣に考えていた。双極性の波に翻弄されながらフェミニストと言いながら誰とでも簡単に寝ている自分に嫌気がさしていた。今思うと別に誰とセックスしようが自由だし、「愛のあるセックス」こそ至上主義に陥っていたからこその悩みなのだが、当時はそれに気づかなかった。男女対等なセックスという議題を持ち出す時点で男女二元論に囚われているというか、いろいろ問題があると今はわかっているのだが、まあ、苦しかったのは事実だ。
この前、含蓄に富む言葉を聞いた。フェミニズムは意識の問題というが、結局は知識の問題になってしまう、ということだ。上の事例でもその言葉が真実だということがわかる。私にフェミニズム的な知識が足りなかったからこその悩みだ。
私は、フェミニズムの、その側面に疲れている。知識が足りないと、発言することすら許されないようなカタカナ用語。フェミニズムは特権を批判するけれど、フェミニズムを学べることもまた、特権の一つだ。
運動するのはいい。でも、その運動がTwitterで終始している気がする。こんなこと言うと怒られそうだけど、Twitterにいるフェミニスト、正直結構怖い。
知識の問題にしていいのだろうか。もちろん、知識は大事だ。しかし、優しさは知識から始まる、そんなポリコレに満ちた世界、私はごめんだ、というと多少言い過ぎだが、疲れてしまう。
今フェミニズムを届けるべきは、学校の勉強が不得意で、精神を病んで不登校になりドロップアウトし、男に依存した生活を送り、何回も堕胎を繰り返すような、そんな女性なのではないかと思う。少し脚色したが、私の知人だ。
知識先行の炎上万歳、常に何かが燃えているフェミニズム界隈に私は疲れた。
それは耳障りの良い、ポストフェミニズムを選ぶということなのだろうか。いや、そうではないと思う。知識先行に走りすぎることなく、フェミニズムをお勉強ができるものの特権にしない方法がないものか。まだ答えは出ていないが、また考えが生まれたら新しく書きたいと思う。
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