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無邪気な特権と悔しさの話

自分だけの整理のために書きました。




あっけなく就活が終わり、障害者雇用で社会人になることが決定したが、マリッジブルーのような気分でいささか落ち着かない。

やっと社会に復帰できると安心したし、生活保護を利用停止になるのも喜ばしい。私は結局、生活保護を受給している自分を全肯定できないままだった。


生活保護は必要な制度だ。それを使って生きている人に対して、恥ずかしくないのかとか、働けとか、穀潰しとか、そんなことは絶対に思わない。生活保護がないと生きていけない人がいるのは、私がよくわかっている。命をつなぎ、そして社会復帰のための小さな足がかりとして、生活保護を利用した一人暮らしは必要だった。


恥ずかしさは感じなかった。しかし、やることが家事とネトフリとたまにの執筆、みたいな状況で、まるっと自分の時間を全部いただくことができるのは、6月からの労働者生活を考えると、ちょっと異常だったと思う。だだっ広く広がる荒野みたいな、何をしてもいい時間、いわば人生の夏休み状態が、実家時代も含めると3年間続いた。


私が病と闘い、負け、一つ一つ痛みと向き合い、それらと付き合っていくしかないのだと心身に理解させている間に、同級生は結婚し、社会人4年目になり、社内でそこそこのポジションに就くようになり、転職などステップアップを果たしている。私だけが時間が止まっているように感じる。


比べても仕方ないのはわかっている。「私が病気でなければ」の問答を脳内で何度繰り返そうが、現実は変わらない。仕方ないのだ。なぜ病を得たのかと問うても恨みや嫉妬、自責に支配されるだけだ。


でも、3年間療養してやっと、やっと私は社会人になれたのに、なんでお前らは健常者で病気がないくせに、全部自分の努力の結果ですみたいな顔をしてるんだ?ふざけんなよ。


いわゆるアッパークラスの友人と縁を切りたいと思っている自分もいる。どうしてわざわざ、辛い思いをして、自分のことを優先できなくなるほどの嫉妬に溶かされるのだと問いかけてくる。


私はその子たちのことも確かに友人として好いているけれど、それよりはもっと、

「私が病気じゃなかったらいたかもしれない世界」の登場人物の側にいたいだけなんじゃないかと思う。私が低学歴の精神障害者ではない世界線での自分に恋い焦がれるような気持ち。だから中高一貫の恵まれた環境にいる友人と付き合いを続けているのではないか。



私はまだ戻れる、とか思っちゃうんですよね。

でも、もう無理なんだよ、諦めて、私は私の人生を生きて、お願いだから。彼女らも彼女らの人生を生きているだけなんだから。私にくれた誕生日プレゼントのロクシタンを喜びながら、GWは舞台の予約を6件入れたと話を聞き、コロナじゃなかったら海外旅行に行ってたのに、と嘆くのは悪気ないのよ。特権に無邪気なのはあると思うけど。


やっとスタートラインに立てたのだから、もっと喜びたいのに、どうしようもなく悔しい。

くさいこと言うけど、人生の主人公は私で、私が一番幸せでしかるべきなのに、自分の芝生を青く育てることに心血を注ぐよりも、他人の芝生を刈ってやりたいくらいの汚い感情を抱いている。









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