ニートかつライターみたいな状況が長く続いていたが、モラトリアムも終わりを告げようとしている。就労準備中です。
私がライター志望を降りる(気取った表現だな)ことにした理由については、こちらに綴ってある。
自分語りライターになるのは嫌なのにそれしか書けない自分に気付き、世界を広げようとしてみるも当事者性を帯びたものにしか興味は湧かず、しかし「何者か」にならなければならないという思いは消えない。その努力の矛先が自分に向けばいいものの現在活躍中のライターの批評ばかりが達者になった己が見苦しくてたまらない。私の社会への怒りは切れ味が鋭い割には大味で、結論が単調になってしまうのもわかっていた。怒りを社会的に価値あるものに昇華したり、自分語りを商品の域まで高める技量もなかったし、したくもなかった。
生きるために書くのであって食べるために書くわけではない、「書く」という行為へのアプローチを変えただけ、と言えば聞こえはいいが、要は挫折だ。
ライターは諦めた。さて次はどうしよう。
短大を卒業してもバイトとフリーランスしかしてこなかった私が、転職エージェントや数々の求人サイトに登録し、情報収集や過去の自分の振り返りなどをしている。
心境はかなり変わった。
フェミニズム系の本は整理し、小難しい思想の本も手放した。Youtuberの好みも変わり、あれほど嫌っていた自己啓発系のチャンネルも見るようになった。広報系の記事に挑戦してみたりもした。
許容できることが増えたのだと思う。
緩やかに食いしばりがほどけるうちに、私は見返してやりたかっただけではなく、「ライター」と名乗ることによる鎧をまとっていたんだと気づいた。
精神障害者のニートはいわば底辺みたいな存在だと私はみなしていた。自分自身のことだ。
友達は皆、学生か社会人で、私のようにふらふらしている者など一人もいなかった。
たぶん、「ライター」になりたかったのは本当の気持ちなのだろう。
でも、それ以上に、「ライター」と名乗ることへの憧れが強かった。「志望」していれば不遇な状況から目を背けられるような気がしたのだ。きらびやかに活躍している友達と、「ライター」志望でいれば対等になれると思っていた。
なんて不憫な虚栄心。
もう一つ気づきがある。
この前のnoteを投稿したら肩の荷が下りて、なんとなく私は社会に対して無関心でいることを自覚的に選択したのかもしれないと思った。
大学を卒業して社会人となった友人は、どんどん変わっていった。思想や社会の話をするのをやめ、職場や恋人の話をするようになった。私はそれにある種つまらなさを感じていた。憤りさえあった。あなたが無関心であるせいで、社会は今も変わらないんだよ、と思っていた。しかし今の私に言わせれば「生活」がかかった仕事のほかの大事なものなどない、とわかる。
私にとっては、大勢の人々の無関心でさえ、マウントを取るための道具だった。いやらしくて浅ましい欲望だと思う。「怒る」ことによって、私は意識が高くていろんなことを考えている人間だと示そうとしていた。
しかし、その友人の変化を、内面や話題の変遷を、丁寧に濾過するように、私は辿っていない。己の立場を守ろうとするばかりで、余裕などかけらもなかったのだろう。
今思うことは、もう己の客観視はいいかな、お腹いっぱいだな、ということだ。
内面のこねくり回しよりも、新しいイベントを求めている。それによって、自分が変化していくのを待ち望んでいる。長かった序章が終わった、みたいな清々しい気分と共に少し未練を引きずりつつ、次のアトラクションに向かっている。
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